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紫式部の本名を調査しましたが、「まひろ」「香子」「藤式部」は彼女の本名ではありませんでした。

この記事では、紫式部の本名の謎に迫ると同時に、大河ドラマ『光る君へ』で使用されている「まひろ」という名前にも焦点を当てました。

当時、女性は家族の官職名を使った通称で呼ばれることが一般的でした。

また、脚本家の大石静さんが、なぜ吉高由里子さんを紫式部にしたのかについてのコメントも取り上げました。

紫式部の本名のQA

紫式部の本名は「何」というの?

紫式部の本名は判明していません。彼女は女房名で呼ばれていたため、確かな資料が残っていないのです。

紫式部の本名は「まひろ」ですか?

2024年の大河ドラマ「光る君へ」で使用されたのは、オリジナルの名前です。ドラマ制作統括の内田ゆきさんと脚本家の大石静さんが候補を挙げ、最終的にまひろに決定しました。

紫式部の本名は「香子」ですか?

「香子」説は藤原道長の日記『御堂関白記』に「藤香子」なる人名が見えることによりますが、この人物が紫式部であるとする確たる証拠はありません。なお、香子=かおるこはキャラクター名です。[ピクシブ百科事典

紫式部の本名は「藤式部」ですか?

彼女の正式な呼称は、「藤原為時の娘」とされ、宮中で仕えていた際の女房名は「藤式部」と呼ばれていましたが、彼女の本名は明らかではありません。

では、なぜ「紫式部」と称されたのか?

「紫式部」の「紫」は、『源氏物語』の登場人物である紫上に因んで名付けられたと言われています。

紫式部という名前は、実際には彼女の実名ではなく、女房として宮中に出仕する際に付けられた仮の名前です。これは召名と呼ばれます。

紫式部の本名が不明な理由

今年の大河ドラマは、『源氏物語』の作者である紫式部が主人公の「光る君へ」です。

紫式部の名前には謎が多く、なぜ「紫式部」と称されたのか考察されています。

当時の女性は、宮中で働く女性たちは家族の官職名を使った通称で呼ばれ、本名の記録は残っていません。

紫式部の本名については不明ですが、彼女の父である藤原為時にちなんで「藤原○子」という形式で呼ばれる可能性があります。

しかし、具体的な「○子」の部分は伝わっておらず、そのため藤原香子という説も提唱されていますが、定説には至っていません。

紫式部は後に『源氏物語』を執筆し、「紫の上」という主人公にちなんで「紫式部」と呼ばれるようになったとされています。

彼女の兄弟が式部省に勤めていたことから、「藤式部」と称された可能性もあります。

ただし、紫式部の名前の由来については諸説あり、今後の研究課題とされています。

なぜ、大石静さんは吉高由里子さんを紫式部にしたのか?

「この企画をNHKさんが示された時に、パッと1番に吉高さんに引き受けてもらいたいと思いました」

大石静氏は吉高由里子さん主演ドラマ「知らなくていいコト」(2020/日本テレビ系)でタッグを組んだ過去を回顧して、次のようなコメントをしました。

「その時もすごく思っていたんですけど、控えめな感じと奔放な感じ、頼りない感じとすごく意思のある感じが1人の中にものすごく同居していて、珍しいなと。女優さんって1つの色になる方が多いんですけど、そういう色んな顔になるところが本当に素敵だなと思ってまたご一緒したいなと思っていた」

また、大石静氏は紫式部の中にあり「陰(いん)」を意識したと言います。弾けた明るさの裏に、紫式部に通じる寂しさがあると感じたことが、吉高由里子さんに役を託したと。

それに対して「根暗だとばれてるんだな。最近は陽キャラでやらせていただいているんだけど」と、吉高由里子さんは答えました。

(読売新聞2024年1月1日)

『光る君へ』第1話の母の衝撃的な死はフィクション?

紫式部の母は、藤原為信の娘であり、藤原基経の同母弟・藤原清経の曾孫ですが、彼女の本名は不明です。

彼女は紫式部の他にも、姉と弟(または兄)の藤原惟規(のぶのり)を産みましたが、おそらく惟規を産んですぐに亡くなったと考えられています。

紫式部の日記には、幼い頃の父との思い出が記されていますが、母のことは触れられていません。これから、幼い頃に母親を亡くした可能性が高いと考えられます。

その後、父である藤原為時は再婚し、後妻との間に惟通(のぶみち)、定暹(じょうせん)、女子の三人の子をもうけました。

しかし、為時が後妻と自宅で暮らしていた形跡はなく、紫式部たちと後妻は同居していなかったようです。

為時は後妻のもとに通っていたと推測され、紫式部たちは母親のいない家庭で育ったと思われます。

>>『光る君へ』藤原道兼は紫式部の母"ちやは"を殺害!史実は?

紫式部の結婚と夫の死

紫式部は、長徳2年に父が越前守に任命され、長い無役の期間が終わった後、約24歳の頃に父とともに越前国に移住しました。

翌年、都からの求婚状が届き、差出人は藤原宣孝という人物でした。宣孝は紫式部の従兄弟であり、優れた官僚でしたが、既に妻帯者であり、子供もいました。年齢も紫式部よりかなり上でした。

紫式部は父を京都に残し、数年後に宣孝と結婚しましたが、彼女は宣孝の正妻ではありませんでした。宣孝は妻とともに暮らし、紫式部をたびたび訪れました。

その後、紫式部は娘をもうけましたが、宣孝は数年後に亡くなりました。彼女はその後、『源氏物語』の執筆を始めました。

>>紫式部の夫・藤原宣孝の知られざる魅力。アラフィフ主婦もビックリ!

紫式部の本名と由来[まとめ]

紫式部の本名については謎が多く、彼女は歴史の中で謎めいた存在として今もなお語り継がれています。

大河ドラマ『光る君へ』で使用された名前「まひろ」についても、脚本家の大石静氏が、なぜ吉高由里子さんを紫式部にしたのかについてのコメントも取り上げました。

文学の歴史において輝かしい1ページを刻んだ紫式部と、その名前にまつわる謎に思いをめぐらせることで、平安時代の魅力を再発見することができるでしょう。