藤原伊周と長徳の変の真相に迫ります!
プライドと嫉妬が招いたイケメン伊周の転落劇、その背後に隠されたドラマを解き明かします。
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長徳の変の原因はイケメン伊周の嫉妬?
996年1月16日、藤原伊周とその弟隆家が、誤って花山法皇に矢を放ってしまいました。
法皇は幸い怪我を負われませんでしたが、矢が袖に触れるという危うい状況であったと伝えられています。
それにより乱闘が発生し、法皇側の従者2人が殺害されるという悲劇が起こり、更には伊周側が彼らの首を持ち去るという混乱が生じました。
この出来事は、「長徳の変」として知られています。
なぜ彼らがそうしたのか?それは女性関係の誤解が原因でした。
当時、伊周は故・藤原為光の三女のもとを訪れていました。一方、花山法皇は為光の四女のもとを訪れていました。三女も四女も為光邸に住んでいたため、近隣で男性の姿を見かけた伊周は激しく動揺しました。
「私の求める三女に他の男が通っている!見ていられない!」
と感情が高ぶり、冷静な確認もなしに従者に襲撃を命じてしまったのです。
当時、貴族の間ではこのような暴力事件は珍しくありませんでした。襲撃に加わった弟の藤原隆家もまた、「天下のさがな者(暴れん坊)」として知られる戦闘タイプの貴族でした。
花山法皇は出家後であり、不名誉な出来事については黙っていましたが、二人の死者が出る事態には問題がありました。
この事件は伊周にとっては避けたいものでしたが、情報は道長の耳にも届きます。
ちなみに、花山法皇が以前に寵愛していた藤原忯子もまた為光の娘であり、亡き愛妃の面影を求めて四女のもとを訪れていた可能性があります。
もしも伊周はもう少し慎重に確認していれば、このような事態は避けられたでしょう……と後悔する余地があります。
この情報を聞いた道長は即座に行動を起こしました。
伊周が播磨へ。隆家は但馬への流罪
事件が発覚すると、一条天皇は藤原実資に命じて、藤原伊周やその家臣たちの屋敷を調査させました。
伊周には東三条院(藤原詮子)に対する呪詛の嫌疑もあり、罪状に追加されました。
その結果、同年4月に伊周と隆家の兄弟は流罪され、彼らの異母兄弟や母の実家である高階家も処罰を受けました。
特に厳しいのは妹の藤原定子でした。
彼女はこの時期に妊娠しており、二条北宮に滞在していました。
そのため、伊周や隆家が出発前にここに隠れているのではないかと疑われ、捜索を受けました。
身ごもっている定子にそんな負担をかけるのは考えられませんが、隆家はそこに隠れていました。
しかし、伊周は見つかりませんでした。
数日後に現れた際、彼は僧の装いをしており、父の墓参りをしていたと言われています。
いずれにしても、罪を問われた彼らは長徳二年(996年)5月15日に、伊周が播磨へ、隆家が但馬へと流罪されることが決定されました。
不幸なことに、その日は彼らの流罪の日でもありました。
兄弟が連行される様子を目撃した定子は、その場で自ら手にはさみを取り、髪を切り落とし、身重の体で尼姿に変身してしまいました。
さらに、伊周の母である高階貴子は、伊周の出発する車にすがりつき、同行を嘆願しました。
しかし、当然ながらそんなことは認められず、彼女はそのショックで病気になってしまいました。
後日、誰かが貴子の病気を伊周に伝えると、心配になった彼は同年10月にこっそり京都に戻り、定子の御所に身を隠しました。
しかし、当然ながら見つかり、再び太宰府に送り返されました。
この行動は、「反省していない」と見られるほどであり、藤原実資も「当然の結果である」と述べています。
もっと見つからない場所に隠れる方法や、母と定期的に手紙をやり取りして慰めになる方法など、より良い解決策があったかもしれませんね。
中関白家として知られる一族は、どうやら直情的な一面があるようです。
長徳の変後の藤原伊周の妹である定子の死
配流後の藤原伊周は、しばらくは控えめな生活を送っていました。
そのおかげか、比較的早くチャンスが訪れ、長徳三年(997年)4月には、東三条院の病気平癒祈願のために大赦が行われることになりました。
伊周と隆家もその対象となり、京都に戻ることが許されたのです。
「大赦」とは、罪人を許し、神仏に徳を積んでもらって貴人の病気を治すためのものです。
お祝い事の際にも行われることがありますが、病気平癒祈願の場合は特に注目されることが多いですね。
中関白家にとって、不幸中の幸いだったのは、藤原定子が一条天皇に変わらず愛されていたことでしょう。
二人の間には、長徳の変と同じ年に内親王が誕生し、長保元年(999年)には一条天皇の第一皇子・敦康親王(あつやすしんのう)が生まれました。
藤原道長の娘彰子が入内する
まだまだ希望があると思われた矢先に、暗雲が立ち込めます。敦康親王が生まれた同じ日に、新たに入内した藤原彰子が女御になったのです。
女御とは、後宮の女性の中でも特に高位で、皇后候補とされる人に与えられる位です。
長保二年(1000年)、道長の意向で彰子が中宮となり、元々中宮であった定子は皇后となりました。
名目上は定子が尊ばれているものの、実際にははるか端に追いやられていました。
そして、その年末に定子はもう一人の内親王を出産しましたが、産後の経過が悪く、そのままこの世を去ってしまいました。
この時、伊周は臣下として産室の傍らに控えていましたが、定子が亡くなった直後、彼は彼女を抱いて悲しみに暮れました。
定子の葬儀の日、大雪の中、彼は徒歩で棺に従いながら、以下の歌を詠んだと言われています。
誰もみな 消えのこるべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき
(訳)人はみないつかは死んでしまうものだけれど、この雪の中で君が逝ってしまったことが悲しい
貴族の方々であっても、悲しい出来事に巻き込まれることはありますが、彼らの家族愛は本物なのです。
この歌は『続古今和歌集』にも収録されており、後世の人々も伊周の悲しみに共感したことでしょう。
定子から生まれた敦康親王が頼みの綱
さすがに同情したのか、または恨みを買わないためか。
同じく長保二年に藤原道長から一条天皇へ、藤原伊周の復位が提案されました。
しかし、一条天皇はこれを拒否しました。
天皇にしても、愛しい妃を亡くして気が滅入っていたでしょうし、もしかするとそのような気持ちもあったかもしれません。
「定子がこんなに早く亡くなったのは、伊周の行いが悪いせいだ!」
しかし、翌長保三年(1001年)の末、まだ回復していなかった東三条院からも「伊周を元の位に戻すように」と求められ、一条天皇は了承しました。
そして、伊周の復帰後、寛弘元年(1004年)秋には、道長が伊周の詩に共感したり、両者の関係は改善されたかのように見えました。
これには理由があります。
この時点で一条天皇の皇子は、定子から生まれた敦康親王(あつやすしんのう)しかおらず、彼女の死後は彰子が養母となっていました。
今後、もし彰子に皇子が生まれなかった場合、敦康親王が未来の天皇になる可能性が高まります。
天皇の母方の家が権力を握るのが一般的なので、そのような状況下では伊周が後見人となる可能性があります。
そのような経緯から、一条天皇や道長も態度を穏やかにしたのでしょう。他の公家たちも、敦康親王の伯父である伊周の邸宅を訪れることがありました。
しかし、伊周への信頼が完全に回復したとは言えない状況です。
藤原伊周と長徳の変の真相[まとめ]
藤原伊周の転落劇「長徳の変」は、為光の娘をめぐる誤解から始まりました。
「長徳の変」は、花山法皇への襲撃、そして事件後の流罪、家族の処罰で構成されます。伊周の再度の京都潜伏も空しく、一族の直情的な一面が露呈しました。
権力を掴むには、イケメン伊周は少し感情的な傾向がある貴公子でした。