大河ドラマ『光る君へ』の登場人物である藤原道兼が、まひろ(紫式部)の母である「ちやは」を背後から刀で襲う衝撃的なシーンが描かれました。
しかし、この場面はフィクションであり、史実とは異なります。では、史実における藤原道兼はどのような人物なのか、調べてみました。
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『光る君へ』の藤原道兼
藤原道兼の良いところ
- 頭脳明晰
藤原道兼(ふじわらのみちかね:玉置玲央)は賢明で知識豊富であり、政治的な駆け引きに長けています。 - 野心家
彼は出世を目指し、自分の地位を向上させるために努力します。
藤原道兼の悪いところ
- 冷酷な性格
非常に冷酷で、人々から恐れられていました。他人に対して優越感を示すこともありました。 - 意地悪
兄弟同士で争う平安時代の中で、彼は兄の道隆(井浦 新)をいつも諭しているような態度を取っていました。
また、オリジナル展開『光る君へ』では、彼はまひろ(紫式部:吉高由里子)の母である"ちやは(国仲涼子)"を背後から刀で殺しました。この衝撃的な行動は、史実ではなくフィクションです。
このように、藤原道兼は複雑な人物であり、その性格は視聴者に強烈な印象を与えています。
藤原道兼とはどういう人物か?
藤原道兼は、平安時代中期の公卿で、道長の次兄にあたる人物です。彼の生涯と業績を紐解いてみましょう。
藤原道兼の生い立ちと家族
生誕:応和元年(961年)
死没:長徳元年(995年)5月8日没。享年35歳
父:藤原兼家(段田安則)
母:藤原時姫(三石琴乃)
兄弟:道隆(井浦 新)、詮子(あきこ:吉田 羊)、道長(柄本 佑)ほか
藤原道兼の業績
- 花山天皇の出家と退位
父藤原兼家の意を受けて、花山天皇を出家させ、退位させることに成功しました(寛和の変)。
その後、一条天皇が即位し、外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達しました。 - 七日関白
長兄の道隆が病死すると、待望の関白になりましたが、僅か数日後に病死したため、「七日関白」と呼ばれました。 - 死後の評価
道兼は容貌が悪く、性格も冷酷とされていますが、一方で男らしい一面もありました。
歴史物語には脚色や虚構も含まれているため、これらの記述は史実の道兼像を忠実に反映しているとは限りません。
藤原道兼は、短い栄華しか得られなかった人物でありながら、その生涯は波乱万丈でした。
寛和の変(かんなのへん)
寛和の変(かんなのへん)は、寛和2年6月23日(986年7月31日)に発生した花山天皇の退位・出家及びそれに伴う政変のことです。
花山天皇は即位後、叔父の藤原義懐(ふじわらよしちか)らの補佐を受けて新政策を進めていました。しかし、彼の寵愛していた女御・藤原忯子が急死し、それがきっかけで天皇は出家を考えるようになりました。
一方、皇太子・懐仁親王の外祖父である右大臣・藤原兼家(道兼の父)は孫の即位と自らの摂政就任を早めるために、天皇の退位・出家を画策しました。その計画は、天皇に仕えていた次男・藤原道兼に対して出家を勧めさせることで進行しました。
そして、寛和2年6月23日の明け方、天皇は道兼の勧めに従って内裏を出て山科の元慶寺に向かいました。この出家を確認した兼家は、皇太子の居所である凝花舎に三種の神器を移し、内裏諸門を封鎖しました。
藤原義懐がこの事態を知った時には、天皇はすでに元慶寺で出家を済ませた後であり、義懐自身も側近の藤原惟成とともに元慶寺において出家したのです。その結果、当時の関白・藤原頼忠も摂関の地位を失い、失脚することとなりました。
最終的に、懐仁親王は一条天皇として即位し、外祖父の藤原兼家は摂政に就任しました。兼家は右大臣を辞任して摂政専任の先例を生み出し、寛和の変は摂関政治の歴史において転機となる事件でした。
この政変は平安時代の事件の一つであり、藤原道兼のキャラクターとしても興味深い出来事です。
まとめ
『光る君へ』では、藤原道兼がまひろ(紫式部)の母である「ちやは」を背後から刀で襲って殺害する場面が描かれましたが、これはフィクションです。そこで、史実の藤原道兼について調査してみました。
藤原道兼は知恵があり、政治の手腕に優れた人物でしたが、同時に冷酷で野心的でもありました。
父である藤原兼家が道兼に命じて、花山天皇の退位と出家を画策しました。その結果、天皇と藤原義懐が出家し、兼家が摂政として権力を持ち、摂関政治に大きな変化をもたらしました。
この寛和の変は時代の政治的転換期を象徴し、道兼の人物像とともに歴史に深い影響を与えました。