この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の…
(藤原道長『紫式部物語繪巻』 国立国会図書館所蔵)
藤原道長(ふじわらのみちなが)の生涯と功績について、彼の卓越した政治手腕や文学への愛、建築への情熱を紐解いてみましょう。平安時代を代表する権力者として、どのような人物だったのでしょうか。
Contents
藤原道長ってどんな方だったの?
藤原道長(ふじわらのみちなが)は、どのような方だったのでしょうか。彼の人生や業績を解説します。
藤原道長は、平安時代中期に活躍した政治家で、藤原北家(ほっけ)という名門貴族に生まれました。家柄を重ね、最終的に最高権力者としての地位につきました。
藤原氏は、「大化の改新」で功績のあった藤原不比等の子孫で、その子孫が南家・北家・式家・京家に分かれました。そのなかで、道長が生まれた北家は、当時最も有力で、代々高位の官職を独占していた家柄でした。道長も幼少から朝廷で仕え、昇進していきました。
藤原道長の生涯
藤原道長は、どのようにして政治の中で権力を握るようになったのでしょうか。生い立ちから最期までの人生を見ていきましょう。
- 藤原道長、京都で生まれる
966年、道長は藤原兼家と時姫の三男として、生まれました。彼の兄弟は後に関白となり、姉たちはそれぞれ皇太后となりました。
兼家は道長の姉である詮子の子を一条天皇として即位させ、自らは摂政に就任しました。その影響もあり、道長は兄たちとともに順調に昇進していきました。
この時期に源倫子と結婚し、一条天皇の后となる娘をもうけています。 - 左大臣から摂政へ
990年、兼家が亡くなり、道長の兄である道隆が関白となりました。しかし、病に倒れて出家し、道兼も急死すると、道長が次の関白候補として浮上します。
姉の後押しもあり、伊周を抑えて「内覧(ないらん)」に就任し、その後左大臣となり、政治の指導力を握りました。 - 娘を一条天皇の皇后に
999年、道長は娘の彰子を一条天皇の中宮として入内させます。1008年には、彰子が後の後一条天皇を出産し、その後も娘たちを次々と皇后に迎え入れ、一家三后を成し遂げます。 - 藤原道長の死
1028年、道長は腫物のために62歳で亡くなりました。その原因は皮膚がんあるいは糖尿病による感染症と考えられています。
藤原道長の摂関政治と文学への貢献
摂関政治は、摂政や関白が天皇の代わりに政治を行う仕組みを指します。藤原家は摂政や関白になることで、権力を握りました。道長もその手法を駆使し、三人の娘を皇后に迎え入れ、摂関政治の全盛期を築きました。
藤原道長が権力を手にした背景には、兄の急死や入内させた娘たちの成功がありました。道長は卓越した政治手腕と運を兼ね備えており、摂関政治を通じて時代を牽引しました。
道長自身は摂政や関白にはなりませんでしたが、人事決定権を持つ左大臣や「内覧」のほうが権力を集中させるのに都合がよかったといわれています。彼は名誉よりも実を追い求め、そのしたたかさがうかがえます。
その一方で、道長は文学を好み、漢詩や和歌を詠むことが好きでした。また、平安時代の女流文学にも影響を与えました。特に源氏物語や和泉式部日記は、その一環として彼の存在が大きな影響を与えたといえます。
藤原道長の人柄エピソード
満月(イメージ)
天皇ですら逆らえないほどの権力を持つ藤原道長の人柄について、よく知られているエピソードを紹介します。
この世をば 我が世とぞ思ふ…
一家三后が成し遂げられた夜、道長は自らの屋敷で祝宴を開きました。その際、彼は
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたる ことも なしと思えば
という歌を詠み、自身の強大な力を表現しました。
この歌には、望月(もちづき)が欠けず、完璧な円月となることで、「この世は私のもののように感じられる」という心境が表れています。
このエピソードは、藤原実資の日記に記されており、「小右記」に収められ、後世に広く伝わりました。この歌は、道長の権勢を象徴するエピソードとして知られています。
藤原道長と藤原伊周との弓比べ
平安後期の歴史書「大鏡」には、道長が兄の道隆の時代に甥の伊周と弓比べをしたエピソードが記されています。
伊周が弓を披露している最中に突然現れた道長は、2本多くの矢で的に命中させ、その後も続く弓比べで優位に立ちました。この勝利により、道長は兄や甥の前で自身の野心をアピールし、その大胆不敵な人柄が示されました。
藤原道長の建築への情熱
藤原道長は、政治活動だけでなく、建築にも情熱を傾けました。出家後は、自邸の隣に阿弥陀堂を建て、「無量寿院」と名付けてそこに住むなど、自身の趣味を具現化しました。
また、息子の頼通が寺に改めた「法成寺」の創建や、別荘の建築などにも関与しました。その建築は、後の平等院に影響を与え、平安時代の美意識を示すものとされています。
まとめ
藤原道長は摂関政治を通じて権力を握り、娘たちを皇后に迎え入れるなど多大な功績を残しました。文学や建築への情熱も示し、その生涯と業績は平安時代の文化や美意識に深く影響を与えました。
その名は歴史に輝く権力者として、今なお称賛を受けています。