藤原定子の辞世の句3首には、彼女の人生や思いが豊かに凝縮されています。
彼女の辞世の句は、命の終わり直前に詠まれたもので、彼女がどのような感情や思いを抱いていたのかを知る貴重な手がかりとなっています。
Contents
藤原定子の辞世の句3首
藤原定子の辞世の句は、彼女が自身の短い命と無常を受け入れながらも、一条天皇や家族、そして宮廷での生活への深い思いを込めたものです。
藤原定子の辞世の句としてよく知られている3つの短歌は、それぞれが彼女の人生や人間関係を映し出しています。
藤原定子の辞世の句①首目
夜もすがら 契ぎりしことを 忘れずは 恋む涙の 色ぞゆかしき
【現代語訳】
夜通し私たちが交わした約束を、あなたが忘れないでいてくれるなら、その気持ちを思い出させてくれる恋の涙の色が愛おしいです
【私見】
この歌は、忘れずに交わした約束を大切にしている心情が感じられますね。恋の甘さと切なさが涙に表れていて、なんとも言えない情緒があります。
50代ともなると、長年の付き合いの中でいくつもの約束を交わしてきたけれど、その一つ一つが今も大切だと感じさせてくれます。
藤原定子の辞世の句②首目
知る人もなき別れ路に 今はとて 心細くも急ぎたつかな
【現代語訳】
知り合いもなく、誰もいない別れの道を歩む今、心細さを感じながらも急いで旅立つのです。
【私見】
死という避けられない別れの道を、一人で歩む寂しさと不安が深く伝わってきます。人生の終わりに向かう心細さは、言葉にしがたいものがありますが、どこか諦めにも似た決然とした感情も感じられます。
彼女の心細さを思うと、今ある日常のありがたさや、出会いの貴重さを改めて心に留めたくなりますね。
藤原定子の辞世の句③首目
煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ
【現代語訳】
私が煙や雲のようになったとしても、私の存在を感じられるように、草葉に止まる露を見て思い出してほしいです。
【私見】
この短歌は、自分がいなくなったとしても、誰かの心の中にその思い出を留めておいてほしい、という切なる願いを含んでいるように感じます。
それにしても、自然の中に自分の存在を重ねて描くというのはとても美しい表現ですね。
藤原定子の墓と埋葬
藤原定子の墓は京都市東山区の鳥辺野
藤原定子の墓は京都市東山区の鳥辺野(鳥戸野)にあります。定子は1000年(長保2年)12月16日に崩御し、生前の希望により土葬されました。
定子の葬儀は雪の降る中で行われ、父の藤原道隆に仕えた平惟仲が取り仕切りました。葬送の際、兄の藤原伊周と弟の藤原隆家は、それぞれ哀悼の歌を詠んでいます。
鳥辺野陵には、定子以外にも多くの皇族が埋葬されています。例えば、醍醐天皇の皇后・藤原穏子や円融天皇の女御・藤原詮子などです。また、定子に仕えた清少納言は、晩年を定子の墓の近くで過ごしたと言われています³。
鳥辺野陵は、現在も宮内庁によって管理されており、訪れることができますが、周囲は鬱蒼とした林に囲まれています。
藤原伊周と藤原隆家の哀悼の歌
藤原伊周
誰も皆 消え残るべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき
(誰しもが永久にこの世に残れるわけではないのに、あなたが去ってしまったことがとても悲しく感じます。)
冷たくなってしまった定子さんの体を抱きかかえ、涙をこらえきれずに号泣したそうです。
藤原隆家
白雪の 降りつむ野辺は 跡絶えて いづくをはかと 君を尋ねむ
(白い雪が降り積もった野辺は道もなくなってしまい、どこを目印にしてあなたを探せばよいのでしょうか。)
これらの歌は、定子の死を悼む兄弟の深い悲しみを表現しています。特に、伊周の歌は涙が止まらない様子を、隆家の歌は定子の死に対する無念さを伝えています。
藤原定子の百人一首
藤原定子自身の和歌は『百人一首』には含まれていません。
『百人一首』よりも前に編纂されたとされる『百人秀歌』に収録されています。
百人一首に藤原定子の和歌が含まれていない理由
- 収録基準
『百人一首』は、鎌倉時代の歌人である藤原定家によって編纂された和歌集です。選ばれた和歌は、平安時代から鎌倉時代までの優れた歌人たちの作品を中心に構成され、和歌の内容や歴史的・文学的価値が基準となっています。そのため、藤原定子の和歌は選ばれなかったのかもしれません。 - 藤原定子の和歌の現存
藤原定子は当時の宮廷文化に大きく貢献しましたが、和歌はあまり多く残されておらず、彼女自身が詠んだ和歌の資料も限られています。ですので、『百人一首』で評価されるほどの注目を集めることが難しかったのかもしれません。 - 百人一首に関連する人物
藤原定子に関わる人物としては、彼女の夫である一条天皇や、同時代に活躍した多くの歌人が『百人一首』に登場しています。ただし、藤原定子自身については、和歌よりもその生涯や宮廷での役割が注目され、和歌の評価があまり目立たなかったと考えられます。
藤原定子の文学的評価
藤原定子は、清少納言の『枕草子』にしばしば登場し、聡明で優雅な女性として描かれています。
彼女の文学的評価は、和歌よりも『枕草子』でのエピソードや、宮廷での文化的影響によるところが大きいと言えます。
藤原定子に関する評価と影響
当時の人々の藤原定子の評価
藤原定子は、一条天皇の皇后として広く知られ、当時の貴族社会で非常に高い評価を受けていました。彼女の美しさや学識に加えて、藤原氏という強力な家柄が後ろ盾となっていることもその一因です。
特に文芸や詩歌においては、彼女は卓越したセンスを持ち、同時代の人々から大いに称賛されていました。
定子の宮廷には多くの文化人や詩人が集い、彼女のもとで数々の優れた作品が生まれました。清少納言が彼女の女房として仕え、その才能を発揮できたのも、定子が彼女の文才を評価していたからこそと言えるでしょう。
藤原定子の後世への影響
藤原定子の影響は、後世に至るまで広く及びました。特に文化や芸術の面で、その影響はとても顕著です。
彼女が一条天皇と共に築いた宮廷文化や、清少納言のような文学者を支えたことが、平安時代の文学に大きな影響を与えました。
『枕草子』はその代表的な例であり、定子を中心とした心温まる日常の描写や、当時の文化が生き生きと綴られています。
藤原定子の生涯
藤原定子の出生と家族背景
藤原定子は、貞元1年(976年)に生まれました。彼女の父は関白・内大臣の藤原道隆で、母は名門貴族の出身である高階貴子です。
藤原定子は、藤原氏北家の中でも中関白家に属しており、非常に高貴な出自であったことが伺えます。定子には、伊周や隆家といった同母兄弟がいました。
藤原定子と一条天皇との結婚
藤原定子は正暦元年(990年)、15歳の時一条天皇と結婚し、同年に中宮となりました。彼女は皇后(中宮)としての正式な地位を手に入れたのです。
皇后としての業績と子供
皇后としての藤原定子は、宮中で多くの文化活動を支えました。その中でも特に、清少納言を女房として迎え、『枕草子』を執筆させたことで知られています。
藤原定子は、一条天皇との間に997年に修子内親王、999年に皇子・敦康親王(あつやすしんのう)、そして亡くなる直前1000年に媄子内親王(よしこないしんのう)をもうけています。
彼女が亡くなった後、彼女のお墓は鳥戸野陵に埋葬されました。藤原定子の存在は、一条天皇にとっても大きな影響を与え、彼女に関連する歌や辞世の句も3首が今に残されています。
藤原定子の辞世の句と墓、百人一首[まとめ]
藤原定子の辞世の句を調べてみました。
彼女の辞世の句3首には死ぬ前の哀しき別れに込めた想いが溢れています。
- 夜もすがら 契ぎりしことを 忘れずは 恋む涙の 色ぞゆかしき
- 知る人もなき別れ路に 今はとて 心細くも急ぎたつかな
- 煙とも 雲ともならぬ 身なりとも 草葉の露を それとながめよ
しかし、彼女の歌は『百人秀歌』には選ばれていますが、後の『百人一首』には入っていません。
【参考サイト】
百人一首 幻の歌:一条院皇后宮・定子の辞世の句
https://hyakuninisshu.sakura.ne.jp/teishi.html
愛されすぎて…皇后定子はわずか24歳で崩御「兄の伊周は冷たくなった妹を抱き号泣した」という最期の瞬間
https://president.jp/articles/-/83981