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藤原惟規の辞世の句から読み解く!

藤原惟規(ふじわらののぶのり)の辞世の句やエピソードから、彼の人物像を探ってみました。

藤原惟規は、平安時代中期の貴族であり、紫式部の弟としてもよく知られています。彼はさまざまなエピソードで、その芸術的な感性や独特の性格が描かれています。

特に『紫式部日記』に記された逸話では、幼い頃、父である藤原為時から漢文を学んでいましたが、惟規は紫式部ほど記憶力がよくなく、父が残念に思ったという話が伝えられています。

大人になってからも、彼のユーモラスな行動や詠む歌が周囲を魅了しました。

今回は、そんな藤原惟規の代表的なエピソードを振り返り、彼の魅力に改めて迫ります。

藤原惟規の辞世の句のエピソード

藤原惟規(ふじわらののぶのり)の父・為時が越後に赴任した際、惟規はまだ蔵人であったため同行できませんでした。後に位が上がった惟規は、父を訪ねようとしますが、道中で病に倒れ、父のもとにたどり着いたときには命が危うい状態でした。

父は僧侶を呼び、惟規に仏教に帰依するよう勧めました。僧侶は「このままでは来世で地獄に落ちることは避けられません。さらに来世が決まるまでの間、中有という孤独な場所で耐えねばならないのです」と話しました。

それを聞いた惟規は「その中有には紅葉や虫の音はありますか?」と尋ねました。

僧侶が不思議に思って「どうしてそんなことを聞くのですか?」と問い返すと、惟規は「それがあれば、少しでも心が和らぐかと思って」と答えました。僧侶はこれを聞いて、惟規が正気を失っていると考え、その場を去りました。

その後、惟規が手を動かしたので、周囲の人が筆と紙を渡すと、彼は次の辞世の歌を詠みました。

みやこには 恋しき人のあまたあれば なほこのたびは いかむとぞ思ふ
(都には会いたい人がたくさんいるけれど、今はもう行けないだろうと思う)

しかし、最後の「ふ」の字を書き終えないまま、惟規は息を引き取りました。父・為時は、彼がこう書きたかったのだろうと推測し、残りの字を補いましたが、その歌を見るたびに涙がこぼれ、紙は次第に滲んでいき、ついには消えてしまいました。

この歌は後に『後拾遺集』に収められ、今でもその美しさと哀しみを伝えています。

惟規はこのように、芸術を大切にした人物として語り継がれていますが、『今昔物語集』では、彼が風雅に傾倒するあまり仏教を軽んじたとも描かれています。

藤原惟規『紫式部日記』でのエピソード

藤原惟規(ふじわらののぶのり)は、幼い頃に紫式部と共に、父・藤原為時から漢字の書物を学んでいました。しかし、惟規は記憶するのが苦手で、学びに苦労していたと言われています。

それに対して、紫式部はすぐに書物を暗記できたため、父は彼女の才能を高く評価し、「もし紫式部が男だったらよかったのに」と嘆いたと伝えられています。

この逸話は、紫式部の卓越した知性が際立つ一方で、惟規の人柄を伝えるエピソードの一つです。

藤原惟規、木の丸殿のエピソード

藤原惟規(ふじわらののぶのり)が蔵人として仕えていた時期、彼は賀茂斎院に仕える女性の一人と密かに会うため、毎晩こっそり彼女の部屋へ忍び込んでいました。しかし、ある夜、家の者に見つかり、「誰だ?」と問い詰められましたが、惟規は答えませんでした。そのため、門が閉められ、出られなくなってしまいます。

このことをその女性が選子内親王に相談すると、内親王は「彼は歌人ですから、許してあげなさい」と穏やかに助け舟を出し、門を開けるよう命じました。

惟規は内親王に感謝し、次のような歌を詠んで感謝の意を伝えました。

神垣(かみがき)は 木の丸殿にあらねども 名のりをせねば 人咎(とが)めけり
(神聖な場所ではないが、名を名乗らなかったため責められた)

この歌は、天智天皇が隠遁生活をしていた時に、先に相手に名乗らせるようにしていたというエピソードをもとにしています。選子内親王は、この歌とその背景に感動し、惟規の機知と才能にさらに心を動かされたといいます。

藤原惟規の辞世の句から読み解く和歌と美意識の高さ[まとめ]

藤原惟規(ふじわらののぶのり)の人生を振り返ると、彼は平安時代の詩人として独特の存在感を放っていました。

紫式部との兄弟関係や木の丸殿でのロマンチックなエピソード、そして最期に詠んだ切ない和歌は、彼の芸術的な感性を象徴しています。

一方で、『今昔物語集』では、仏教よりも風雅を優先してしまった彼の姿も描かれており、彼の人生が芸術と宗教の間で揺れ動いていたことが垣間見えます。

最期の瞬間まで詩心を忘れず、紅葉や虫の音さえあれば慰められると語った彼の言葉は、彼の美意識の深さを物語っています。

藤原惟規の生き様は、平安時代の貴族文化の中で、いかに詩や歌が人々の心に大きな影響を与えていたかを示すものであり、彼のエピソードは後世に伝わる重要な遺産と言えるでしょう。